妻が子どもが1週間の帰省。そこはかとなく不安を覚えた話

「そこはかとなく」
なんとなく。どことなく。特にどこがどうと言うわけではないが、雰囲気として感じられる様子などを表す表現。「そこはかとない」の活用。

まさにそうなんです。具体的に何かがあるわけではなく、掴みどころの無い不安を感じているのです。私は子どもが産まれて、6ヶ月間の育休を取得しました。現在は復職して、仕事から帰ったら育休中の妻と子どもがいる毎日を送っていました。

この度、妻が子どもを連れて実家に帰ったので、1週間ほど一人の時間を過ごしています。9ヶ月ぶりの一人の時間。音楽に読書にやりたいことはいっぱいあって、ワクワクしていましたが、実際に一人になった時の思いもよらぬ心のざわつきに自分自身がとても驚きました。

私はこんなにも子どもに依存していたのか。

絵本やおもちゃをあちこちに散らかして、よだれダラダラで迎えてくれていた我が子がいない。絵本もキチンとしまわれて、ベビーチェアも昨日から微動だにしていない、整った部屋に違和感を覚えました。時が止まっているかのようです。

私は、この違和感の正体を突き止めなければならないと思いました。そして、気づきました。これは”いかん”と。

私が子育てについて大事に考えていることに、「過干渉しない」ということがあります。決して育児放棄ではなく、親の理想を子どもに押し付けないということです。子どもの人生は親のリベンジマッチではないのです。

しかし、これを体現するには、親自身が自立(自律)し、心に余裕がなければなりません。今回のこの不安や違和感の正体は、将来自分が子どもに過干渉してしまうのではないかという予兆を感じ取ってしまったからでした。ジェダイが自分の中にダークサイドを感じるようなものですね。

幸い私はアホほどポジティブな人間です。今、このことを感じとれたのはラッキーだったと考えました。あれやれこれやれと、子どもに指図するのではなく、自分のやりたいことをやっている姿を子どもに見せてあげる。これこそが私のできることで、やるべきこと。

守るものができたとか、子どものために働くとか、それこそがダークサイドに落ちるマインドセットです。子どもを育てる義務はあります。しかし、その前に自分には自分の人生があります。大それたことはできなくても、つまらない人生だったとしても、その埋め合わせを子どもに求めるのはお門違いです。

自分の人生を生きる姿を子どもに見せて、一緒に成長していく。これが私の目指す育児です。

はー。なんとかまとまりました。